昭和 終戦まで

昭和2年(1927)箕輪まで自動車道路が延び、乗合自動車路線も箕輪まで延長した。

昭和4年(1929)頃 水原秋桜子登山。句集『葛飾』(昭和5年刊行)に「赤城の秋」11句収録。

昭和4年(1929)6月 赤城山の観光宣伝のため、群馬県・前橋市・上毛新聞社の呼びかけに応えて、西条八十、竹下夢二をはじめ多数の文化人が赤城山登山に参加。

昭和6年(1931)東京方面への観光宣伝が功を奏して、登山客は年間5千人を超えるようになった。源作は、新坂平より見晴山を登って沼尻へ下るコースを開発。また、遊覧船(フォードのエンジン付)を造り、大洞への送客、大沼一周遊覧の営業を始める。乗船桟橋の入口には乗船券売り場、休憩所、みやげ品売店を設けた。明治時代から使っていたろ漕ぎの和船2隻の他に貸しボート10隻も新造する。

昭和7年(1932)青木あいは孫達の教育のため前橋市才川町(現在、日吉町)に営業所を新築する。

昭和7年(1932)6月 須藤泰一郎ら登山。短歌「赤城山」を『言霊』(昭和9年9月刊行)に収録。

昭和8年(1933)遊覧船(シボレーエンジン)を増設。この年、赤城山登山者は年間2万5千人ほどに増加した。

昭和9年(1934)7月 与謝野鉄幹・晶子ら一行2泊。晶子『冬柏』第5巻第8号に短歌「赤城の歌」35首発表。

昭和9年(1934)11月 昭和天皇が関東陸軍特別大演習に際し、行幸。このときの駕籠が青木旅館に保管されていた。一杯清水から駕籠であったと思われる。紅いカーペットの代わりに枯れ葉を敷き詰めたという。

行幸記念の石碑が大沼湖畔の青木旅館近くに建っている。

昭和10年(1935)に県立公園に指定され、乗合自動車は一杯清水まで延長運行され、登山者は10数万人に増加。都内の学生など夏期林間学校の宿泊も多くなる。青木旅館の宿泊者収容数は200人余りに拡充された。

しかし、昭和12年(1937)日支事変勃発から太平洋戦争終戦後まではバスも現在の畜産試験場で止まり、観光地として苦しい時代であった。

昭和10年代 岡本かの子「生々流転」(昭和15年刊行)を執筆。

この頃、小沼湖畔に道が作られ、源作は水門から右方向に進む道に石畳を敷く工事を行った。

昭和17年(1942) 水原秋桜子登山。「赤城山探鳥行」と題し26句作句。

現在の厚生団地の場所はかつてはかやぶき屋根を葺く為の茅場であったが、この頃赤城山の家もトタン屋根に吹き替えられて茅の需要もなくなり、源作は樅の木の植林を行った。