• 青木旅館の歴史

旅館の歴史

明治43年(1910)大沼湖畔の放牧

明治43年(1910)大沼湖畔の放牧

大正5年(1916)の青木旅館

大正5年(1916)の青木旅館

大正5年(1916)大沼の舟遊び

大正5年(1916)大沼の舟遊び

安政4年(1857)青木茂三郎が前橋藩の事業=赤城牧場の牧監に就任する。蔓延元年(1861)牧監及び山番として、沼尻の地に居を構える。次第に赤城越えの旅人の往来多くなり、天候の急変や日暮れにより、お助け小屋の状態となる。

明治元年(1868)赤城山が御料地となる。

明治8年(1875)茂三郎の長男=青木平七は、小暮より一家を挙げて移住し、本格的に旅館業を開始。

明治11年(1878)採氷業を始める。厳冬期に切り出した大沼の氷を夏に東京方面に販売した。

明治23年(1890)、明治41年(1908)10月 大町桂月登山。

明治35年(1902)平七の次女=青木あい館主となる。

明治38年(1905)8月 与謝野鉄幹・晶子ら登山。

明治42年(1909)土屋文明登山。

明治44年赤城神社発行の「赤城山案内」に、赤城山沼尻の靑木屋は蠶種貯蔵所も営んでいたこと、素麺が名物で評判であること、お料理には大沼の魚(山女、イワナ、鮒、クキ)、鳥獣、茸類を提供していたことが書かれていた。

大正4年(1915)8月 前田夕暮登山。

大正5年(1917) 詩人 林柳波(童謡「ウミ」「オウマ」の作者)と妻のきむ子が青木旅館で出会う。

大正10年(1921)10月 須藤泰一郎ら一行登山。短歌「赤城山」を『瑞垣』(昭和4年4月刊行)に収録。

大正12年(1923)宮内省帝室林野局より、宅地山林を払下げ、私有地とした。この年、2階建新館、1階2階共に客室-5部屋を建設する。そして、営業は養子の源作に渡す。

青木源作は、大正7年(1918)5月より大沼で鱒の養殖を始め、この実績を買われて、昭和2年(1927)県立の鱒孵化場の委嘱を受ける事になった。

また、大正13年(1924)頃より沼尻スキー場を造り始めて、昭和2年には完成したようである。昭和4年(1929)に赤城山で国際スキージャンプ大会が開催され、都心に一番近いスキー場として知られるようになり、冬の客も年々多くなった。源作は貸しスキーを思い付き、柏山の大工=児玉福松に山の木を使って30台くらいのスキーを作らせた。レンタルスキーとしては我が国初と思われる。同年赤城スキークラブが発足し、源作が初代会長となる。(現会長は青木旅館6代目青木泰孝が務めている。)

昭和の初めの頃の青木旅館と人々

昭和の初めの頃の青木旅館と人々

昭和の初めの青木旅館

昭和の初めの頃の青木旅館

昭和8年(1933)新坂平の駒寄(餌場)

昭和8年(1933)新坂平の駒寄(餌場)

昭和2年(1927)箕輪まで自動車道路が延び、乗合自動車路線も箕輪まで延長した。

昭和4年(1929)頃 水原秋桜子登山。句集『葛飾』(昭和5年刊行)に「赤城の秋」11句収録。

昭和4年(1929)6月 赤城山の観光宣伝のため、群馬県・前橋市・上毛新聞社の呼びかけに応えて、西条八十、竹下夢二をはじめ多数の文化人が赤城山登山に参加。

昭和6年(1931)東京方面への観光宣伝が功を奏して、登山客は年間5千人を超えるようになった。源作は、新坂平より見晴山を登って沼尻へ下るコースを開発。また、遊覧船(フォードのエンジン付)を造り、大洞への送客、大沼一周遊覧の営業を始める。乗船桟橋の入口には乗船券売り場、休憩所、みやげ品売店を設けた。明治時代から使っていたろ漕ぎの和船2隻の他に貸しボート10隻も新造する。

昭和7年(1932)青木あいは孫達の教育のため前橋市才川町(現在、日吉町)に営業所を新築する。

昭和7年(1932)6月 須藤泰一郎ら登山。短歌「赤城山」を『言霊』(昭和9年9月刊行)に収録。

昭和8年(1933)遊覧船(シボレーエンジン)を増設。この年、赤城山登山者は年間2万5千人ほどに増加した。

昭和9年(1934)7月 与謝野鉄幹・晶子ら一行2泊。晶子『冬柏』第5巻第8号に短歌「赤城の歌」35首発表。

昭和9年(1934)11月 昭和天皇が関東陸軍特別大演習に際し、行幸。このときの駕籠が青木旅館に保管されていた。一杯清水から駕籠であったと思われる。紅いカーペットの代わりに枯れ葉を敷き詰めたという。

行幸記念の石碑が大沼湖畔の青木旅館近くに建っている。

昭和10年(1935)に県立公園に指定され、乗合自動車は一杯清水まで延長運行され、登山者は10数万人に増加。都内の学生など夏期林間学校の宿泊も多くなる。青木旅館の宿泊者収容数は200人余りに拡充された。

しかし、昭和12年(1937)日支事変勃発から太平洋戦争終戦後まではバスも現在の畜産試験場で止まり、観光地として苦しい時代であった。

昭和10年代 岡本かの子「生々流転」(昭和15年刊行)を執筆。

この頃、小沼湖畔に道が作られ、源作は水門から右方向に進む道に石畳を敷く工事を行った。

昭和17年(1942) 水原秋桜子登山。「赤城山探鳥行」と題し26句作句。

現在の厚生団地の場所はかつてはかやぶき屋根を葺く為の茅場であったが、この頃赤城山の家もトタン屋根に吹き替えられて茅の需要もなくなり、源作は樅の木の植林を行った。

昭和30年(1955)頃の青木別館

昭和30年(1955)頃の青木別館

昭和30年代 大賑わいの赤城山大沼スケート場

昭和30年代 大賑わいの赤城山大沼スケート場

昭和30年代の地蔵岳ケーブルカー

昭和30年代の地蔵岳ケーブルカー

源作の長男=青木崇は、復員して昭和21年(1945)、大洞売店でボート貸しを始めた。戦後はまだレジャーも少なかったので、日帰りの登山客も多かった。昭和24年(1949)には、貸しボートを40隻にして、昭和25年(1950)には大洞に別館を建て旅館業を開始した。

昭和20年(1645)代 佐藤愛子 度々滞在して、習作を執筆したり、友人と登山したりした。

赤城山山頂の夏牧場では戦前は主に軍用馬にするための馬が放牧されていて、戦後も昭和23年頃まで夏には大沼湖畔に馬や牛が放牧されていた。

昭和25年(1950)には大洞に別館を建て旅館業を開始した。この頃、手打ちラーメンや炭酸饅頭などが日帰りの行楽客に好評であった。

昭和28年(1953)本館も赤城山の木を用いて建て替えた。

昭和29年(1954)(有)青木旅館設立。青木崇が社長となる。

昭和30年(1955)大洞に電気が供給され、赤城山分校開校(平成9年(1997)休校)。翌31年(1956)赤城山出身の猪谷千春がコルチナオリンピックにてスラロームで銀メダル獲得。この年大洞まで東武バスの路線が延長された。

同年本館を増築。

昭和30年(1955)映画「ここに泉あり」の撮影で今井正監督、小林桂樹、岡田英次、岸惠子など宿泊。

オーストリア・スキー学校最高技能章」表彰状
青木崇が受けた「オーストリア・スキー学校最高技能章」表彰状

昭和32年(1957)利平茶屋と鳥居峠間にケーブルカー完成(昭和42年(1967)廃止)。大沼スケート場が開設され、観光バスによるスケートブームとなる。

旅館ではスケート靴の貸し出しも行い、氷上のスケートリンク脇に小さな小屋を数件並べて、挽き立ての珈琲や、あんまん、肉まん、ビンの牛乳を温めて販売した。

この頃は未だ夏まで氷室に保管しておいた大沼の氷にシロップを掛けたかき氷を食堂で販売していた。本館の敷地を流れる清水で冷やしたサイダーやビール、心太も夏には好評であった。

昭和33年(1958)地蔵岳ロープウエー及びスキーリフト運行開始(平成10年(1998)まで営業)。沼尻に電気供給。昭和40年(1965)小暮大鳥居完成。昭和41年(1966)赤城南面有料道路完成(白樺ライン)。

昭和38年(1963)3月13日 青木崇 「オーストリア・スキー学校最高技能章」を授与される。

昭和44年(1969)青木別館ドライブセンター開設(平成2年(1990)閉店)。昭和53年(1978)別館建替え。

昭和45年(1970)青木崇 全日本スキー連盟発行「SAJスキー教程」のスキーの歴史について執筆。編集・出版に関わる。

昭和50年(1975)~60年(1985)頃 田中澄江 登山で宿泊。「花の百名山」(昭和55年刊行)「新 花の百名山」(平成3年刊行)に投宿した日の事など記す。

昭和57年(1982)北面有料道路開通(平成7年(1995)南北両道路無料化)。翌年赤城温泉―小沼道完成。

昭和61年(1986)青木崇 全日本スキー連盟より永年の功績を讃え、表彰を授与される。

昭和62年(1987)カフェ&レストラン「樹林」オープン。

昭和62年(1987)NHK「小さな旅 赤城山の四季 ~大沼を訪ねし文人達~」(昭和62年4月放送)を本館で撮影。青木崇出演。

平成元年(1989) 髙田宏「猪谷六合雄:人間の原型・合理主義自然人」(平成2年刊行)執筆のため滞在。

平成10年(1998)~平成22年(2010)日本テレビ「ぐるぐるナイティーナイン」13年間毎冬赤城山大沼の氷上わかさぎ釣り撮影のため宿泊。

平成13年(2001)新坂平の総合観光案内所開設に伴い、管理と喫茶・売店の共同経営の発起人となる。

平成16年(2004)青木崇の娘婿=青木泰孝社長となる。

平成19年(2007)本館改装。大浴場新築。カフェ&レストラン「樹林」をコテージ風の離れに改装。

平成19年(2007)NHK「小さな旅 今日も赤城が見える ~風の山 文学紀行~」(平成19年11月9日放送)青木崇出演。

平成21年(2009)富士見村から前橋市となる。

平成23年(2011)5月8日テレビ番組の撮影で、市毛良枝、根本りつ子宿泊。黒檜山を登山。

平成24年(2012)NHK「にっぽん紀行 それでもここで春を待つ ~群馬・赤城大沼~」(平成24年3月21日放送)東日本大震災後の放射能汚染で宿泊客がほとんど訪れなかった冬の一ヶ月間の旅館の様子を撮影。ナレーション羽田美智子3月16日宿泊。

平成24年(2012)9月23日 青木崇 永年の功績を讃え、全日本スキー連盟より顕彰授与される。

平成24年(2012)10月20日 テレビ東京「土曜スペシャル 紅葉を求めて!軽井沢~赤城山」(平成24年11月2日放送)撮影で、パンチ佐藤、村井美樹、根本りつ子宿泊。

平成25年(2013)2月20日頃 菊池凛子連泊。監督処女作「MEMORY OF AN ARTIST~芸術家の記憶~」を撮影。

平成27年(2015)8月17日 原田真二 ファンクラブの集いで宿泊。バーベキューや演奏などをする。

平成29年(2017)6月12日、10月22日、11月20日 女優・小林綾子宿泊。赤城山をブログで紹介。

平成31年(2019)2月3日・4日 NHKBSプレミアム「グレートトラバース3」(平成31年6月1日放送)で三百名山を登頂中のプロアドベンチャーレーサー田中陽希が連泊。一日目は花見ヶ原から雪の黒檜山を登頂し、大沼湖畔に下山。二日目は氷上ワカサギ釣りをして、三日目伊香保温泉を目指して出発。

泰孝は平成6年(1994)に赤城大沼漁業組合の組合長となり、平成11年(1999)国と所轄の役所の補助を受けて、大洞に孵化場を新設。平成22年(2010)ビン型孵化装置を増設して、ワカサギの安定供給を実現した。

令和2年(2020)沼尻にもビン型孵化装置を増設。現在大沼は関東地方で唯一氷上ワカサギ釣りが出来る湖として賑わっている。旅館ではフィシングサポート「釣船」で釣り人の要望に応えている。

令和2年9月1日、別館は有限会社青木旅館(代表取締役 青木泰孝)から独立して、「赤城山 青木別館」(代表 青木猛)として営業を開始した。

近年の登山ブームの中、赤城山は日本百名山の一つとして多くの登山者を迎えており、旅館は訪れる登山者の疲れを癒やす場所として、自然の温もりを大切に赤城山の歴史とともに時を刻んでいる。

 

平成28年11月記
平成31年10月追記
令和3年4月追記